世相診断

党首討論

 いやー・・・・・・参ったねー。
先月の27日のことであるが、自民党の党首(麻生太郎首相)と民主党の党首(鳩山由紀夫)との党首対決が行われた、民主党の前党首、小沢一郎が党首対決、党首対決といきまいていたのだが、西松建設による不正な献金問題が発生し、トーンダウンしてしまった経緯があり、その後、国民に不正献金について説明責任を果たしてもらいたい、との国民の声の一層の盛り上がりが拡大し、党首対決を目前にして、突然、党首を辞任するとの発表を行った、スッタ、モンダ、の結果ようやく、鳩山民主党の党首が誕生した訳であるが、テレビニュース等で党首対決の状況を見ていたら、あれは、まるで子供の喧嘩と同じだ、政権担当能力はどちらの党か、などと激論を戦わせたようであるが、国民をなんと考えているのだろうか、鳩山党首は、友愛政治なる美辞麗句を並べたてて耳障りのよい発言をしているようであるが、中身がない、あれはパフォーマンスと言われても仕方がない思う。
 そもそも、政治は誰のためにあるのか、全ては国民が中心ではないのか、国民の幸福のために政治は存在するのでなければならない、国民を蚊帳の外において何が政治か、近年稀に見る、百年に一度と言われるような経済不況のなかで、どれだけ国民が虐げられてきたか、考えてもらいたい、国民の福祉のための法案についての論争ならいざしらず、子供の喧嘩とは何事か、馬鹿馬鹿しくて聞いていられない。所詮、権力を掌握したい人間の末路はこんな程度でしかないのかと、つくづく考えさせられてしまった。しかも、公共の電波を使って全国の人の耳にいれているという事実を真摯に考えてもらいたい。
 政治とは何か、国民の為の法案審議を真剣に考えてもらいたい、確かに、政治は国内問題だけではない、諸外国との関係は絶対に無視できないし、内外問わず必要な絶対条件であるのは間違いないが、真剣さが感じられないのだ、政治家は自分を犠牲にするぐらいの気持ちでなければ仕事は出来ないと、声を大にして云いたい。本当の政治家は誰か!大半の議員は、あれは、政治家ではない、あれは政治屋だ!権力に取り付かれた魔性であると言いたい。

09年6月3日

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時代(その2)

 今から30年程も前の話になるだろうか、私は師より次のようなお話を聞いたことがあります、丁度、国の政策で国民の所得倍増計画のなかで、景気のよいときであった。
今のように失業者で溢れることもなかった、物質文明の絶頂期であったかもしれない、大方の人は幸福とは、住むには家があり暮らすにはお金があり、欲しい物が手に入れば人々は幸福であると普通であれば誰もが思った時代である。
 そんな時、師は今は物質文明も終焉にきている、この先は、いよいよ精神文明の開花する時代に入ってきている、と聞かされたものだ。ところがどうであろう、今は当にその時代に入っている、人間の精神の衰弱は様々な事件を生み出し、企業は唯、利益の追及のみに奔走し売れればよいとの商業主義は低劣な映像文化、愚劣な出版物を社会に垂れ流している。良書に至っては愛読する人は少なく、人々はスキャンダラスなものを好み、自分より優れた人を妬み陥れようと画策する、他人への干渉を拒むがゆえに人間同士の対話が無い、それが正しいことなのか、間違っていることか人々は判断の基準をもたない、ここまで、人間の精神が衰弱した時代も無いであろう、仏法で云う当に末法である。更に、人間精神の荒廃は人間同士の衝突へと突き進み地球上には絶え間ない戦争が今でも続いている、愚かな指導者に率いられた国民ほど哀れなものは無い、戦争が起こると決まって何の罪も無い女性や子供が犠牲になってしまう。
今こそ、人々は眼を凝らして文明を見つめなおさなければならない時がきていることを知るべきである、そうして、だれびとたりとも自らを人間革命をする以外に平和な地球に変えることが出来ないことを知るべきである。
師云く「一人の人間革命はやがて一国の宿命をも転換するであろう」と......

09年1月17日

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時代

 決して、慢心から云うのではなく宗教上から観察して、少々、時代を分析してみたいと思います、仏教と言えば、原点は釈迦(釈尊)が説いた教えということは誰でもが知るところです。
その、釈尊が一番民衆に教えたかったところの教えが法華経です、この法華経は1品から28品までで成り立っており、開経(かいきょう)と結経(けっきょう)を加えると30品(ぽん)から成り立っております。
その中に、「法華経方便品第2」というのがあります、その経文のなかに「五濁悪世」(ごじょくあくせ)と説いております、五濁ですから五つつあります、所謂、時代の濁り、人間の濁りを五つに分けて説いているのです。
1.劫濁(こうじょく)、劫濁とは時代そのものの濁りを云います。
2.衆生濁(しゅじょうじょく)、衆生濁とは民衆社会の濁りを云います。
3.煩悩濁(ぼんのうじょく)、貧瞋癡慢(とん、じん、ち、まん)等の煩悩からくる濁りを云いま す、貧はむさぼり、欲深く物を欲しがること、瞋は怒りをいい、癡はおろかなことをいい、慢は慢心をいいます。
4.見濁(けんじょく)、見濁とは思想、哲学の濁りを云います。
5.命濁(みょうじょく)、命濁とは人間生命それ自体の濁りを云います。
以上のようなことが「法華経方便品第2」の経文にとかれておりますが、総じて主体は人間そのものになるのですが、世の中が盛んに悪い状態のことを指しており、それを末法(まっぽう)といいます。現代の時代をつぶさに見ていくと、いかに、人間の精神が荒廃しているか、人間の精神の荒廃がまた、更に荒廃した時代を築いていくことになります。それが、益々エスカレートしているのが現在の世相であり、時代背景となります。では、どうししてこのような時代になってしまったのでしょうか、答えは簡単です、それは師の教えに背いて(即ち仏の教えに背いて)人間のエゴイズムを増長させていったからにほかなりません。それらは、魔の力となって人間精神を内側より破壊していくことになります。人間がこの魔力に打勝つためには、仏の生命による以外にありません。魔の働きも仏の生命には勝つことが出来ないのであります。今の現状では学者や、文化人が如何に高邁な言葉を述べていたとしても、一向に出口が見えないのが現状ではないでしょうか。本当の人間のための宗教が復興しなけれ問題の解決にはならないことを痛感します。

09年1月14日

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人生の散歩道

「還著於本人」(げんちゃくおほんにん)(法華経観世音菩薩普門品第二十五にある句)という言葉がある。「還って本人に著きなん」と読む。と、かえって自らの身にうけるようになるという意味。
一団体の利益のために、人間のエゴイズムを満たすために、地球環境を破壊し宇宙環境の果てまで破壊しつくす人間の生命に巣くう魔性の怖さ、今地球は泣いている、まさしく「還著於本人」ではないか。解決方法は、唯一、各々ひとりひとりが正しい思想と哲学に学ぶ以外にない。

次のような言葉があります。「依報(えほう)は影のごとし、正報(しょうほう)は體(たい)のごとし・身なくば影なし、正報なくば依報なし、又正報をば依報をもって此れをつくる」「依報」は環境、「正報」は人間を意味する。人間と環境は切り離すことの出来ない関係にある。環境破壊が人類の破滅につながるところまできている。しかし、その環境を善の方向に変えるのも人間自身なのだ。自国の利益誘導のためでは結局は利己主義だ、洞爺湖サミットを地球環境サミットに・・・・・、議長国日本、大丈夫?

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秋葉原の殺傷事件に思う

平成20年6月8日の昼、東京・秋葉原の歩行者天国で突然25歳の男が歩行者に何やら意味不明の叫び声を発しながら通行人を次々とサバイバルナイフで刺して行った、この間に要した時間はわずか5分程度であったそうだ、この事件による死傷者は十数人が重軽傷を負い7人が死亡したと発表される。
逮捕された犯人の犯行の理由は、『世の中が嫌になった、殺すのは誰でもよかった」全く無差別の殺人行為である、最近はこの種の事件が跡を絶たない。犠牲者の方々に心より哀悼の意を表します、所轄警察署は事件の全容解明を全力で行うとの事。
しかし、考えてみてください、どんなに手をつくしたとしても人の心の中は誰にも見えないし心理学者の手に委ねられ専門的な見地から分析されたとしても、人の心の奥底は量れないし、解決するとも思えません。
その悪の爪をもぎ取るには、その奥に隠れている人間精神の善なる開拓がなければ解決は出来ないと思います。評論家が机を叩いて議論を交わし解決する事ではありません、根は非常に深いのです。人間の生命活動という次元にまで掘下げて考えなければならないことなのです、古来より日本人の生命の奥底に根付いてきた、厭世的な思想が流布し日本人の生活基盤の根底をなしてきた結果とも云えないだろうか。
力強い未来を建設し、希望に胸を膨らませる社会建設のため、先ずひとり、ひとりの生命の善なる変革の連鎖に問題解決の鍵があるのでは・・・・・、一人を大切にする生命の変革の連鎖を・・・・・。

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